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連日就職活動によって面接が続いている。
一応のことで内定を得た私ではあったものの、心中で得心が行っておらず、だらだらと続けている。
中年男性が苦手だ。
これは面接を行っていてはたと気付いた自分にとっての一番のトピックだった。
自分の人格の形成に一つ一つ理由を求めるのは、幼い頃から外で遊ばなかった私の癖の一つで、このことに理由を付けるとすれば、やはり父親の存在は大きかろうな、と感じる。
思えば就職活動を始めてから父親に関してかなり沢山のことを考えていて、自分の中で消化し切れていない感がある。
父親と母親の離婚が母から伝えられたのは小学校4年生の春休み中の朝のことで、何となくその場で泣きじゃってみたりはしたものの、実際のところ海外出張や単身赴任の多かった父親が家にいようといまいとさして会う機会に差は無かったようにも感じられ、自分としても新学期が始まってしまえば大して大きな意味を持たなかったような気がする。たまたま敬語で会話していたのを目撃したときは流石にこたえたが。
むしろこの頃の自分として一番人生に大きな影響を与えたのはこの頃から母と親しくしていたおじさん、今にして思えば母の彼氏的な存在の男性との出会いの方で、この人やその周辺の飲み仲間の人々との交流はその後の人生に多少なりとも動きを与えたと思う。多分一時は本気で結婚を考えていた時期もあったはずで、その計画は他ならぬ私によって拒絶されたのであるが、今でもたまに会ってご飯に連れて行って貰ったりしている。そもそもこの人は半分グレーゾーンの人で、この人から聞いたその筋の話は幼少期の自分にはやたら面白く、分別を覚えた今となってみれば冷や汗ものの体験もかなりさせてもらった。
弟に関しては自分より四つ下ということもあってこの人の方が父親としての感情が強いようにすら感じるほどで、父親に対しては敬語で会話しているらしい。私はこの弟とかれこれ6年近く会話をしていないが。
母と父の間には養育費の面で契約がなされており、一月に一度私たちと父とで会う機会を設けることで支払いを行うということになっていた。あとから他所の話を聞くと、支払いを行ってくれる父親の方が少ない程だそうで、この点で後から父親に対して感謝を抱きはしたものの、中学生になってからも父親と二人でプールに連れていかれたり、あまり楽しくない釣りを行うのは余り気の進むことではなく、このことは自分が父親との共通の趣味と成り得る楽器を始めた理由の一因にもなった。
楽器を始めてからは月に一度エフェクターを買ってもらったり、スタジオでやりたくない曲をやってみたりしていたのだが、後から考えればこの間は弟と父の間にかなり大きい溝を入れた期間でもあるような気がする。
そんな事を考えつつも父親との仲は悪くはなく、私からしてみればかなり歳の離れた兄のような不思議な感覚で、まあなんとなく楽しめていた。
父親に対して一番評価、というか印象が大きく動いたのは、大学一年の頃、父から異腹の妹弟の存在を告げられたときで、「父は独り身となって以降も我々兄弟のために生きているのだ」という私の思い上がりによって成り立っていた父親像はこの時結構派手に崩れ落ち、私自身も海で絶叫する程にはショックを受けた。今にして思えばティーンエイジャーを完全に家族向けの行楽地に連れていったり、車載CDの趣味がいきなり変わったり、ipodにプリキュアのopが入っていたり、結構ヒントはあったのだが、そこはそれ、思い上がりというのは自分の方に物事を寄せて考えるのに絶好の状態である。
就職活動に際して母の友人のキャリアコンサルの人や学校の就職支援課など結構な数の大人に意見を伺った。それぞれがそれぞれにまあそうなんだろうなあと感じさせてくれるような意見を伝えてくれ、大人というのは大層立派なのだなあと思った。
父親から大人になること、「ちゃんと」することについて言われた記憶が一切ない。思えば幼い頃から我が子の奇行を何よりの楽しみとして見ていた気がする。大体いつも不真面目で、大学に関してのエピソードも大体がサボった話と留年した話、試験でカンニングした話だった。それなりの大企業で部長を勤める立場に期待して就職について意見を伺っても、返ってきたのは予想通り圧倒的な意識の低さと働くことの馬鹿馬鹿しさについてだった。でも、それが自分にとっては他のどんなアドバイスよりも参考になった気がした。
父親を初めて偉大な存在だと感じつつ、いずれ来る兄弟間での遺産争いに思いを馳せている。